Dyatlov_Pass_incident_02

1:名無し23/03/20(月) 05:38:23 ID:NEQ4
北九州監禁殺人事件のWikipedia読んだけどなんかの創作物ってくらい濃い内容だった









北九州監禁殺人事件 - Wikipedia
本事件は、詐欺と脅迫の容疑で1992年(平成4年)7月に指名手配を受けた男Mが、内妻のBとともに逃亡する過程で出身地である北九州市にたどり着き、知人の不動産業の男性を脅迫と虐待の末に死亡させ、その後Bの親族を北九州市の自宅に呼び寄せて監禁し、脅迫と虐待の末に親族間で殺害させた事件である。死亡したのは不動産業の男性を皮切りに、Bの父・母・妹・義弟・甥・姪の計7名に及び、裁判ではBの父に対するもののみ傷害致死罪とされ、他の6名については殺人罪が認定された。
2:名無し23/03/20(月) 05:40:40 ID:lm5N
ディアトロフ峠事件



ディアトロフ峠事件 - Wikipedia
ディアトロフ峠事件(ディアトロフとうげじけん)とは、1959年2月2日の夜、当時のソ連領ウラル山脈北部で雪山登山をしていた男女9人が不可解な死を遂げたことで知られる事件である。事件は、ホラート・シャフイル山(Kholat Syakhl、Холат-Сяхыл、マンシ語で「死の山」の意[1])の東斜面で起こった。
当時の調査では、一行は摂氏マイナス30度の極寒の中、テントを内側から引き裂いて裸足で外に飛び出した(矛盾脱衣)とされた。遺体には争った形跡はなかったが、2体に頭蓋骨骨折が見られ、別の2体は肋骨を損傷、1体は眼球および舌を失っていた[2]。さらに何人かの犠牲者の衣服から、高い線量の放射性物質が検出された。 事件は人里から隔絶した山奥で発生し生還者も存在しないため、いまだに全容が解明されず、不明な点が残されている[3][4]。当時のソ連の捜査当局は「抗いがたい自然の力」によって9人が死に至ったとし[3]、事件後3年間にわたって、スキー客や探検家などが事件の発生した地域へ立ち入ることを禁じた[2]。 ソ連を引き継いだロシア連邦の最高検察庁は2020年7月13日、雪崩が原因との見解を示した[5]。






7:名無し23/03/20(月) 05:42:50 ID:646Y
松山ホステス殺害事件
整形して逃げ続けてた犯人が時効ギリギリで逮捕された



松山ホステス殺害事件 - Wikipedia
1982年8月19日に愛媛県松山市のマンションでホステス(当時31歳)が元同僚のホステスであった福田和子に殺害され[1]、福田和子とその夫がマンションから家財道具を運び去って逃亡。家財一式が奪われたうえに、女性の遺体が松山市内の山中に遺棄された強盗殺人及び死体遺棄事件である。 福田和子と夫が松山に向かったのは、被害者の女性とは別の知人と会うためだったが知人は不在であった。 この事件で注目されたのが、犯人の福田和子が整形手術を受けたうえで当時の強盗殺人罪の公訴時効である15年(延長を経て、現在は無期限)直前まで逮捕されず逃亡したことであり、マスコミ報道を見た市民による通報で逮捕されるとの劇的な幕切れを迎えたことであった。



15:名無し23/03/20(月) 05:48:56 ID:lgP5
キティチャンの中に人肉入ってるってやつ



ハローキティ殺人事件 - Wikipedia
〖ハローキティ殺人事件〗 被害者は当時23歳のナイトクラブの渉外役の女性で、1997年に祖母の医薬費を調達するため、ポン引きの頭であった被告(33歳)から数千元相当の香港ドルとその他の財物(一説には麻薬の借金)を受け取った。3人の男(33歳、26歳、19歳)は女性に借金の返済を強く求め、妊娠した後でも依然として客をとらせるなどしていたが、被害者に返済能力がないと知って腹を立て、尖沙咀加連威老道 (Granville Road) のアパートに監禁した。被害者は1ヶ月にわたる暴行・拷問の末に死亡した。 男(33歳)は被害者の死亡を確認すると、死体をバラバラにすることに決め、男らは死体を浴槽で解体し、プラスチック製の袋に入れるなどして棄てたほか、頭部をストーブで煮た後にハローキティ人形の頭に詰めて縫合した。



16:名無し23/03/20(月) 05:51:42 ID:Nkgz
プチエンジェル




プチエンジェル事件 - Wikipedia
犯人は無店舗型の非合法の未成年者デートクラブ「プチエンジェル」を経営。女子高生数人をスカウトとして雇い、渋谷や新宿で「カラオケ5,000円、下着提供10,000円、裸体撮影10,000円」などと書かれたチラシを配ってローティーンの少女を勧誘し、男性客に斡旋、その他わいせつビデオの販売も合わせて多額の利益を得ていた[1]。また本人も過去に買春で逮捕歴があり執行猶予中だった。 2003年7月上旬、少女のうちの1人が渋谷で勧誘され、「会ってくれたお礼」として犯人から金をもらう。犯人からは「いつでもおいで」といわれており、以降も携帯電話で連絡を取っていた。 同月11日、犯人は所有していたフェラーリ2台を売却する。また、犯人とは別の人物が赤坂のウィークリーマンションの部屋を契約する。部屋は最上階11階の2LDKで、費用は犯人が払った。 翌12日、犯人は都内の量販店でポリタンクや鉄アレイを購入。この際に練炭や七輪も購入したとみられている。 13日、少女4人は犯人から「部屋を1万円で掃除してほしい」と誘われ、渋谷駅前で待ち合わせて、タクシーで赤坂のマンションに連れて行かれる。マンションで掃除を始めると「ここに来た意味わかるよね」と犯人の態度が豹変。手錠と目隠しをされて監禁された。2人が逃げようとするが失敗、手錠にポリタンクや鉄アレイを付けられて逃げられないようにされスタンガンで脅された。同日深夜 家族から警察に捜索願いが出される。 15日、マスコミで少女が行方不明になったと報道される。 16日午前、警視庁は犯人の逮捕状を2002年3月に中学2年の少女を買春した容疑で請求。捜査員が犯人の住所付近で聞き込みを始める。同日朝9時頃、犯人はリビングでテント状にしたビニールの中に入り、七輪で練炭自殺を図り死亡した。 17日、物音が聞こえなくなったのを見計らい、少女の1人が手錠をはずして脱出、外に出て近くの花屋に助けを求める。駆けつけた警察官が4人を保護、犯人の死亡を確認。事件を受けて翌日には渋谷で一斉補導が行われ、少年少女1,500人以上が補導された。


29:名無し23/03/20(月) 06:10:46 ID:zzAB
ワイのお勧めはこれ
岡田更生館事件

岡田更生館事件 - Wikipedia
岡田更生館事件(おかだこうせいかんじけん)とは、岡山県吉備郡岡田村(現:倉敷市真備町岡田)に1946年(昭和21年)12月から1950年(昭和25年)まで存在した浮浪者収容施設・県立岡田更生館で起きた組織的な監禁、暴行傷害、殺人事件である。 外部からは「模範施設[4]」と評価されて施設の内情が閉ざされていたことから、犠牲者は開設から2年余りで76名[1][注 1]にものぼった。 この実情は、1949年(昭和24年)2月に施設収容者の一人が脱走して毎日新聞大阪本社にリークしたことを契機に、同社社会部の記者であった大森実と小西健吉が潜入取材した結果、社会的に知られることとなった[5]。その後、本件は国会でも取り上げられて、太平洋戦争後の混乱期における弱者支援制度の構造的な問題が指摘された[3][6][7]。事件発覚から1年後には館長や県職員らに判決が下っているものの、罪状は業務上横領ないし私文書偽造であり、殺人・暴行は含まれていない[8]。


浮浪者収容施設で地獄のような虐待が行われていて、何十人もリンチで殺されていた
一人の収容者が脱獄しメディアと接触
その話を信じた記者が証拠を得るため浮浪者に成りすましその更生館に潜入取材し、証拠を掴んで暴露したって事件





37:名無し23/03/20(月) 06:37:58 ID:Xjov
コンクリのヤツ
同じ人間がやったとは思えんわ



女子高生コンクリート詰め殺人事件 - Wikipedia
女子高生コンクリート詰め殺人事件(じょしこうせいコンクリートづめさつじんじけん)は、1988年(昭和63年)11月から1989年(昭和64年)1月の間に発生した猥褻略取誘拐・監禁・強姦・暴行・殺人・死体遺棄事件の通称である。 1988年11月25日夕方に埼玉県三郷市戸ケ崎を自転車で走行していた被害者女子高生(事件当時17歳)が突然、不良少年グループに拉致され、約40日間にわたってグループのたまり場だった東京都足立区綾瀬の加害者宅に監禁されて暴行・強姦を受け続けた。 1989年(昭和64年)1月4日に被害者の女子高生は加害者グループから集団リンチを受けて死亡し、その遺体はコンクリート詰めにされて東京都江東区内の東京湾埋立地に遺棄された[判決 1]。 1989年(平成元年)3月以降、別の強姦事件で逮捕された加害者少年らが事件を自供したためにその事件の全容が判明した[3][4]。 刑事裁判における事件番号は第一審・東京地方裁判所では平成1年(合わ)第72号[判決 1]、控訴審・東京高等裁判所では平成2年(う)第1058号である[判決 2]。 本事件は非常に残忍・凶悪な少年犯罪として日本社会に大きな衝撃を与え、加害者少年宅に被害者少女が長期間監禁されていたにも拘らず、その加害者の両親も含めて少女の命を救えなかった点に激しい非難・疑問の声が上がった[5]。 また、昭和最後の凶悪犯罪(発覚は平成)である。



38:名無し23/03/20(月) 06:43:09 ID:y7ie
>>37
あれほんまなぜ死刑にしないのか






35:名無し23/03/20(月) 06:26:15 ID:zzAB
デイヴィッド・ハーン - Wikipedia
デイヴィッド・チャールズ・ハーン(英: David Charles Hahn、1976年10月30日 - 2016年9月27日)は、17歳のときに自家製の原子炉をつくろうとしたアメリカ人である。ボーイスカウトアメリカ連盟のメンバーであったことから、「ラジオアクティブ・ボーイスカウト」や「ニュークリア・ボーイスカウト」とも呼ばれた。1994年、ハーンはミシガン州コマース郡区にあった母と暮らす実家の裏庭で、小屋にこもってひそかに実験を行った。ハーンの原子炉内の核物質が臨界量に達することはなかったが、彼の運転する車が別件で地元警察に止められたことをきっかけに実験が発覚した。ハーンは、車内でみつかった実験材料を問いただした警察官に、それが放射性物質だと警告したのである。その10か月後に、ハーンの母親の所有する地所は環境保護庁によってスーパーファンド(有害物質汚染地区)として浄化活動が行われた。 ハーンの実験は発覚当初にも大きくメディアに取りあげられたが、1998年にケン・シルバースタインが『ハーパーズマガジン』誌に記事を掲載したことでさらに有名になった。

デイヴィッド・チャールズ・ハーンは、17歳のときに自家製の原子炉をつくろうとしたアメリカ人である。

身の回りの物から放射性物質をコツコツ集め、結構がんばっちゃったアホ






36:名無し23/03/20(月) 06:27:03 ID:y7ie
>>35
頭いいのに被爆のことは考えなかったんかいw






58:名無し23/03/20(月) 11:55:24 ID:uKAw
あの有名なトイレに詰め込まれた図の事件も背景知るとくそ小説みたいだった




福島女性教員宅便槽内怪死事件 - Wikipedia
1989年2月28日、福島県に住む当時23歳だった女性教員(以下、Aと記す)の自宅の便槽内からAの知人男性(当時26歳)(以下、Sと記す)が遺体として発見された。Aが自宅のトイレでSの遺体を発見し、110番通報をした。そこに警察が駆けつけると、便器からはSの頭部が見えており、頭上には靴が一足乗せられ、外にある汲み取り口からは足が見えていた。上半身は裸で、身につけていたと思われる白いセーターを抱きしめていた。しかし便器口20cm、汲み取り口36cmでどのようにしてSが便槽内に入ったのかが不可解といわれている。 警察はこれを事故としているが、殺人であったとしても2004年に公訴時効が成立している。




22:名無し23/03/20(月) 06:03:34 ID:zjRR
ユーチューブで芸能スキャンダルを暴露してたら国債指名手配されたやつとか






24:名無し23/03/20(月) 06:05:43 ID:y7ie
>>22
盗撮写真で脅迫してるんで妥当












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